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聾者、聾唖者という言葉が混在しているが、これは筆者がこの二語をどの様に使い分けるべきか判断に苦しんでいる表われである。
一方、手話は一つの動作・手などの形状・手などの位置・表情…が一つの意味単位となっているものである。更に、広く実用されている手話では、そこに文法と称べるだけの構造がある。
指文字の最大の利点は、書かれた文章と寸分違わぬ発話が可能なこと、である。この点で、音声よりも更に厳密で文法的な発話方法と言える。しかし音声言語についての深い理解が前提となっている上、発話の労力が余りに大きいという難点がある。はっきり言って、指文字だけではおよそ実用にならない。あくまで手話の補助(固有名詞の表示・新語の明示など)として使われている。
と思っていたが、ブロニスラバによると、旧ソ連の聾唖学校では、手話を禁止する代わりに、指文字による会話を奨励していた。聾唖者は苦もなく指文字で単語を綴って会話をしていた、と言う。事実ならば、旧ソ連の聾唖者は気の毒というしかない。
そこで造られたのがBである。その地域で使われている音声言語を、そのまま手で表そうという試みだ。だから「人工手話」と言っても、所謂人工言語とは違う。指文字を能率化したもの、と考えれば近いだろう。しかしこれは手話の特性(同時性など。後述。)を殺すことになる。指文字ほどではないにしても、煩雑なことには変わりなく、もともとその音声言語を知らない人(先天的聾者など)には、理解しづらいものになりがちである。
Cはこの反省の上に立って、手話の特性を生かしつつ、音声言語へも繋がる様に配慮された手話である。日本ではこの手話が次第に普及しつつある。
私はBやCを無視するつもりはないが、その人工性や音声言語への依存性を見ると、手話らしくなくて個人的には興味に欠ける気がしている。
一般の人が手話に対して様々な偏見を抱いているのは、ある程度予想されることではある。だが、聾教育の専門家や言語学者でさえ、手話を一つの言語として認めず、禁止あるいは無視して来たという歴史には驚かざるを得ない。「歴史」と言ったが、実は現在でも尚、その傾向が強い様である。聾教育の現場では、手話の禁止こそしなくなった様だが、いまだに口話法(口の形を読み取る、また音声言語で発話する。聾唖者がこの技術に秀でていると一般には思われているが、実際は違う。例しに「いちにち、いい日だった。」と鏡を見ながら発音してみるといい。唇は「〜だった」まで全く動かない筈である。口の形だけで発音を知ることは非常に困難な作業なのだ。)が優勢であるらしいし、殆どの言語学入門書は音声言語のみを人間の言語として定義している。
聾教育のかつての立場は、こうである。一般の人が音声言語しか知らない以上、それを獲得しなければ聾者は、社会で生きて行くのが非常に困難になる。手話は手真似であって言葉ではない。音声言語を学習する上で、何ら助けにならないばかりか、手話に頼れば音声言語の学習がおろそかになるだろう。だから手話を禁止する。口を見ろ、声を出せ。
こんなことが真面目に言われていたし、今でも一面の真理ではある。しかしこの様な弾圧にも関わらず、手話は使われ続けたし、今日ではかなり市民権も得た様だ。教育者の認識も変わり、手話の積極的な利用が模索されている。
それに対して、言語学ではどうだろう。言語学者の認識は変わりつつあるが、それが教育の場にまでは浸透して来ていない様である。それは、いわゆる「言語」の定義に手話が必ずしも当てはまらないからかも知れない。そういう面倒くさいものに触れなくても、教えることはいろいろあるので、言語学教育では手話を扱わないのかも知れない。
二 手話は音声言語の派生に過ぎない。(音声言語をそのまま手の形に置き換えただけ。)
ただ一つだけ言うなら、こういうことだと思う。音に限らず、ある種の記号に一定の法則を与えさえすれば、人間はあらゆることを表現できるのである。この点で、音声も手の動きも、全く平等な条件にある。つまり、音声言語で表せることは、総て手話によってでも表すことができる、ということだ。
と言って、各地の手話がその地域の音声言語や文化と全く無関係かと言うと、勿論そんなことはない。例えば、日本の手話では親指を「男」・小指を「女」に見立てるが、このことは日本人なら殆どの人が直観で理解する。だが、世界の傾向としては親指は「良い」を表し、小指は「悪い」を表すのが普通である。つまり、日本独特の文化が日本の手話にも影響を与えていると言える。
また、日本の手話では漢字の形を指で表したり、空中に書いたりすることがある。これは当然、漢字を使用している地域ならではの現象で、欧米ではまず見られない。
この様に、手話も各民族の文化的背景から自由ではなく、「手話は世界共通」(誤解の一)という幻想は夢物語に過ぎないのである。
伊藤政雄によると、中国においても、手話は共通語の役割を果たした。中国語は方言差が大きく、北アメリカ同様に、地域の違う者同士では音声言語が役に立たない。勿論、漢字という共通文字は持っていたが、筆談では労力が大きすぎる。そこで商談などでは、手話が一般的に使用されたという。その為、中国では手話に対する偏見が非常に少ないらしい。
ならば、異なる音声言語の入り組んだ地域では手話が発達するのかと言うと、そうでもない。例えばかつて音声言語の方言差が著しかった日本を例に取ろう。
日本の手話は方言差が激しく、共通語とはほど遠い状態である。少し前までは、地域毎というよりも、学校毎・手話サークル毎に使う手話が違うと言われる程、方言があった。更には、世代差・個人差が加わって、混乱の極みになっている。文化的な素地が同じなのにも関わらず、手話に統一性がないのには相当の理由があると思われる。森明子は、聾唖者が社会から隔離されていたこと・学校教育で手話が禁止されていたこと・辞書など手話統一への指標がなかったこと・手話は「羞かしいもの」という認識があったこと、などが原因であると指摘している。しかしここに挙げた原因の多くは、世界のどこにでも見られた現象で、何故日本の手話に方言が多いのかを充分に説明していないと思う。重要な原因として、日本の手話の歴史が浅いことを挙げたい(百年くらいだと言われている)。つまりこれから統一の方向へ向かう、ということである。
音声は一時に一つの音素しか発することができない。だが、手話では一時に複数の発話が可能である。それは腕が二本あること・指が十本あること、などによるものである。複数の腕・指を同時に別の要素として用いるのは、少しも難しいことではない。更には頭の傾き・視線・表情・体の向きなども意味のあるものとして扱われる。この様に、幾つもの要素が線条にではなく、同時に現れるという手話ならではの特徴を、「同時性」と称ぶ。
この同時性によって、手話は発話時間を短縮させたり、物事の関係を視覚的に明らかにしたりできる。これは手話の極めて有利な点なのだが、一方で不利に働くこともある。例えば造語力の低下である。音声は線条的であるが故に、音の並び方を変えることで、別の単語が造り出せる。(「アメリカ」と「カメリア」は同じ音で構成されているが、並び方が違う為に別の単語になっている。)しかし手話ではそうした要素が、一つの空間に同時に表されてしまう為に、並べ方を変えることが難しい。(四人の人がそれぞれ「メ」「リ」「ア」「カ」と同時に発音した場合、それが「アメリカ」なのか「カメリア」なのか、区別できないのと同じである。)
これは手話の視認性によるものと言えよう。3.1でも述べた様に、位置関係が重要な要素になるのである。
他にも様々な違いがあると思うが、今のところ、これしか思いつかないので、これでおしまいにする。
だが、この論に私は疑問を持つ。何故なら、音声言語も必ずしも線条的なものとは言えないのではないか、と思うからである。音声言語を話す時でも、手話と同じ様に、同時に様々な信号が発せられている。即ち、声の強さ・高さ・大きさ・速さ、間の取り方、それに顔の表情などの、様々な信号が伴わない発話は、普通あり得ない。今、文字に表される音だけでなく、これら全てを表記しようとすれば、手話と同様、音声言語でも文字化は絶望的な作業になるだろう。そこで音声言語では、様々な信号の中から多くを捨て去り、唯一音素だけを対象にして、文字化を行なった。(漢字などはさておき。)
その結果、文字化は成功した。が、捨ててしまったものが本当に不要だったわけではない。文字の上からだけでは、必要な情報が足りない為に、本来の意味が再現できない場合が出て来ている。(「君は利口だね。」と書かれている場合、感心して褒めているとも考えられるし、逆に皮肉を言っているとも考えられる。文脈から判断可能なことが多いが、仮に発話の際の表情や語調まで文字に表していれば、文脈を見るまでもなく意味の決定ができる。「一升瓶は一生、瓶だった。」という洒落も、漢字で書けばすぐに理解できるけれど、ローマ字や仮名で表記されれば、なかなか意味を理解することはできないだろう。これも音声言語の文字が、大事なものを切り捨てて成立している証拠である。)
つまり、手話を文字化する場合も、表現されているすべての信号を文字にする必要はないのである。最低必要なことだけを抽出して表記すれば、音声言語同様の整然とした文字化が可能な筈である。
とは言っても、手話では音声言語よりも、遥かに表情などに対する依存が強い。それらの表記なしでは満足に意味を伝達できないのが実態である。しかしこれは、手話がまだ若い言語であることから来ている問題だと言える。(日本では約百年、欧米でも二三百年の歴史があるに過ぎない。)音声言語もその揺籃期には表情・語調に大きく依存していたと想像されるし、その文字化にはおよそ数十万年の時間を必要としたのである。手話は生まれたばかりの言語であるが、音声言語よりも遥かに速く発展するだろう。手話の表現はより恣意的になり、分化し、整理される。そうなれば、手話の文字化もさして困難なものではなくなる、と私は考えている。更に言えば、手話を文字化することによって、逆に手話の恣意性が促進されることも考えられる。
手話が孤立語的な特徴を示すのは、世界的な傾向である。これが必然的なものなのか、それとも将来には変化して行くものなのかは判らない。少なくとも物理的必然(手を使う以上、語の文法的変化や付加は不可能だという証拠)はないし、音声言語の多様性を見れば、手話だけが一種類であり続けるという確証もどこにもない。
語と語の関係が一見して解ってしまう場面では、語の屈折や接尾辞の付加は煩わしいだけである。手話は視覚的な表現をするので、語と語の関係が明瞭なことが屡々ある。が、語順が一定していないなどsyntaxの緩さの為に、逆に語の関係が曖昧になってしまう場合もまた多い。田上隆司は、手話を第一言語とする人の間で、語と語の関係が不明確だったが為に、解釈が違ってしまった例を挙げている。これは明らかに手話の不備であり、手話を必要とする人がいる以上、改善されて行くに違いない。その過程で手話言語のタイプが変化する可能性は充分にあるだろう。
話が横にそれてしまった。文法を記述する上で、やはり問題になるのが3の同時性である。時間的な順番を重視する従来の統語論が応用できるのか、音素に当たる様な素子を抽出できるのか。手話をも含めた普遍文法はあり得るのか。解決すべき問題は多い。
音声言語のモンゴル語は文法的に音声言語の日本語と類似している(系統が同じだという説もある)。音声言語が手話に或る程度影響を与えるとすれば、モンゴルと日本の手話を対照する意義は一層深くなる。
しかし、そもそもモンゴルに独自の手話が存在するのか不明である。アメリカの手話がフランスから輸入された様に、モンゴルの手話もどこかよその(恐らくロシアの)輸入品である可能性も十分にある。実際、内モンゴル自治区で用いられている手話は、中国の手話である。同じモンゴル人でありながら、モンゴル国の聾者と内モンゴル自治区の聾者は会話できない状態にある。
勿論、これは期待のしすぎかも知れない。だが少なくともこれからの言語学で、手話が重要な分野になることは間違いないだろう。
『手話をめぐって』F.C.パン、田上隆司、前田芳弘、森明子 1976 文化評論出版
『手話の諸相』F.C.パン、伊藤政雄ほか 1978 文化評論出版
『人間(ヒト)は手で話す』G.マラリー 1990 PMC出版
『耳の聞こえない子どもにコトバを ソビエトの聾唖児教育』
K.D.ブロニスラバ 1976 鳩の森書房
その他 (書名などを控えていなかったもの若干)
◎ お断り
特に但し書きのない場合、「手話」という言葉は、手話一般、或いは日本で使われている手話を指す。
1 手話を論じる為の基礎知識
1.1 指文字と手話の違い
指文字は一つの指の形と一つの文字を一対一に対応させたもので、原理は手旗信号やモールス信号などと同様である。 1.2 手話の種類
これまで単に「手話」と言って来たが、実は手話と呼ばれるものには種類がある。簡単に分けると、自然手話と人工手話ということになる。2 手話に対する偏見
2.1 教育の場における偏見
教育の場というのは二つある。一つは聾教育を行なう聾唖学校であり、もう一つは言語学を教える大学である。 2.2 一般的な誤解と偏見
聾者と関わらない、また手話に特に関心のない人々は、手話に対して多くの誤解をしていることが多い。米川明彦は様々な研究者の見解をまとめて、以下の七つの誤解を挙げている。
一 手話は普遍的なものである。(世界共通である。)
以下でこれらの誤解を解いて行くことになるが、二については1で既に述べてある。それに、よく考えればすぐに誤りに気がつくものばかりだと思う。だからこれら総てについて、反証することはしない。
2.2.1 同地域で使用される音声言語と手話の関係
米川氏の指摘した誤解の二に通じることだが、普通の人は「日本の手話は、日本語の手話。アメリカの手話は、英語の手話。」だと思っている。しかし今までに言及して来た様に、手話には独特の文法がある。それだけでなく、単語の概念範囲も一致しないことが多い。従って日本の手話と日本語は別の存在である。同様に、アメリカの手話は英語とは違う。その良い証拠として、アメリカの手話とイギリスの手話が全く異なること(アメリカの手話はフランスから輸入された)が挙げられる。また逆に、台湾の手話と日本の手話が、その音声言語の相違にも関わらず、非常に類似しているのは、植民地時代の教育のなごりだという話である。 2.2.2 共通語としての手話
たった今否定したばかりだが、手話の普遍性という神話は、ある意味では真実である。実際に北アメリカ先住民の間では、音声言語が多様で通じなかった代わりに、手話が共通語として浸透していた。その手話が全大陸にわたって同一のものであったという主張にマラリーは疑問を呈している。が、彼らの文化が互いに近いことから、その手話が同一でなかったとしても、意志の疎通はできただろうと想定される。3 音声言語と手話の主な違い
3.1 同時性
しつこい様だが、手話は言語である。しかし、音声言語とはかなり違った言語であることも確かだ。最大の違いは、必ずしも線条的ではない、ということだろう。 3.2 可逆性
音声言語では音素の並び方を逆にして、逆の意味を表わすことは滅多にない。しかし手話においては、逆動作・逆位置などによって意味の逆転を表わすことが比較的多い。勿論、必ずそうなるわけではない。4 手話を言語として扱うには
今まで述べて来たことは、手話の概況であって、私がやりたいと考えていることの前提に過ぎない。これから、手話を言語として研究する幾つかの方向を示したいと思う。研究の展望、というよりも夢想・妄想に近いものになっている。
4.1 文字化
3で述べた様な複雑さが、手話の文字化を阻害していると言われる。これまでもStokoeを始めとして、手話の文字化がいろいろな人によって試みられたが、決定的な方法がないままである。線条性を持たない手話は、線条的に並ぶ文字にはしにくい、ということらしい。 4.2 文法の記述
手話には品詞はない。これは「手話には文法がない。」という米川氏が挙げた誤解の六の一因でもある。だが、中国語の様な孤立語を考えてみれば、この非難が当たらないことが容易に理解されるだろう。また、中国語に品詞がない、という言い方が必ずしも妥当ではないのと同じで、手話にも定義次第で品詞は存在すると言える。 4.3 他の地域の手話との対照
4.1,4.2で挙げた問題を解決する手段として、手話同士の対照研究は有効だと思う。私は大学学部時代にモンゴル語を専攻していたので、モンゴルの手話と日本の手話を対照してみようともくろんでいた。が、資料が全く手に入らず、計画だけに終わっている。5 まとめ
手話はまだ若く、不安定な言語である。これはある意味ではマイナス要素である。しかし、それは同時に利点でもあると言える。つまり、手話は「言語の誕生」という世に稀な、ダイナミックな現象を観察する絶好の素材なのである。渾沌の中から、人間がどの様に言語を作り上げて行くのか、それを手話は教えてくれている気がする。また、これまでの言語学が見落としていた、なにか重大なものに気づかせてくれるような気もしている。
参考文献
致元の HOME PAGE(モンゴル語学 HOME PAGE)